▽なまえ 丸山利仁(まるやまとしひと) 1954生まれ さそり座 AB型 出身:奈良県
▽略歴
H15.3 学校卒業後勤め続けた会社を早期退職
H15.3 奈良県立高等技術専門校 家具工芸科を修了
H15.3 第一回アマチュアギター製作コンテストで入賞
H15.12 奈良ポリテクセンター 住宅サービス科を修了
H16.1 「クラフトM」創業、このHPを開設
H16.12 まほろば創作木工グループ展に家具やギターを出展
H17.5 第二回アマチュアギター製作コンテストで銀賞と特別審査員賞を受賞
H18.4 フランス国立音楽博物館(パリ)での「ロベール・ブーシェ研究会」に参加
H19.5 東京ハンドクラフトギターフェス2007にギターを出展、同フェスにてアル・ハープを初披露
H19.8 J.L.ロマニリョス主催のギター製作コース参加 at シグエンサ(スペイン)
H19.11 第22回国民文化祭とくしま2007にギターを出展 同時にロマニリョス製作コースの講演実施
H20.5 「彩アート・皐月展」にギターを出展 (5/15 to 5/19 於:けいはんな記念公園 水景園)
H20.6 茨木市制60周年記念「茨木市クラシックギターフェスティバル」にギターを出展 (6/13
to 6/15)
同フェスティバルの実行委員を務める
H21.7 「彩アート・文月展」にギターとハープリュートを出展 (7/4
to 7/6 於:けいはんな記念公園 水景園)
H21.9 韓国テジョンでの「国際ギターフェスティバル」にギターを出展(9/25〜9/27
at Daejeon Culture&Art Center)
▽マスコミ関係
H15.5 月刊誌「現代ギター」に第一回アマチュアギター製作コンテスト入賞が掲載
H17.6 月刊誌「現代ギター」に第二回アマチュアギター製作コンテスト銀賞が掲載
H17.7 週刊ダイヤモンド誌「転展天職」に紹介される
H17.8 朝日新聞「匠アリ!」に掲載される
H17.10 テレビ朝日系「人生の楽園」に出演
H17.12 季刊誌「naranto」に掲載される
H18.2 奈良テレビ「馬場章夫のなら!みち見聞録」に出演
H18.4 アーティストハウス発行の「人生の楽園」の本に掲載される
H18.5 NHK奈良局「ならナビ」でギター作りが紹介される
H18.6 NHK大阪局「関西ニュース一番」でギター作りが紹介される
H19.8 奈良県図書館発行の季刊誌「ナラヲヨム」に工房およびアル・ハープが紹介される
H19.9 大阪日々新聞にアル・ハープが紹介される
H20.7 奈良新聞 「ひと花鳥風月」に掲載される
H21.2 奈良テレビ「気ままに駅サイト」に出演
▽おまけ
☆幼い頃のクラシック音楽
幼稚園のお昼ねのときいつも鳴っていた気持ちのよい音楽。後にサン・サ−ンスの「白鳥」だとわかった。
歌謡曲も含めて小さいころから綺麗なメロディーの音楽が好きだった。
小学校のときはベートーベンの「トルコの兵隊」と掃除のときの「ドナウ川のさざなみ」、「金と銀」。
☆中学校
ブラスバンド部。何と7人編成でタンホイザー序曲やゴリウォグのケークウォークをやってコンクールに出た。
自分はクラリネット担当。3年になって初めて学校にアルトサックスが入ってきた。夢にまで見た憧れの楽器だ。
さっそくクラから持ち変えた。グラッシー製(懐かしい名前!)だった。サックスソロで有名な「アルルの女」の間奏曲
をよく吹いた。が、最高音域の運指を誰も知らず従って一番いいいところでオクターブ下げていた。
一方では体操部。運動会で皆の前で演技したことが忘れられない。こんなこと、顧問が校長先生だったためか。
☆吹奏楽
N高専では最初バリトンサックス、3年からはアルトに。2年先輩にアルトの名手で音楽性抜群の方がおられた。
今でも間違いなくその人の影響を受けている。ちなみにその人は卒業してフランスに音楽留学された。
今は音大の先生でプロのプレーヤーでもあり、有名なサックスアンサンブルも主宰されている。
奈良文化会館での定期演奏会。そのときのLPレコードが宝物。今聞くと「けがれの知らない」純な演奏だ。
先輩から引き継いだYAMAHAのアルトがものすごく抜けて良く鳴った。
就職して初めてのボーナス+親のスネでセルマーのアルト(MarkY)を購入し、某市吹奏楽団で吹き続けた。
その楽器はいまでも健在だ。アメセルだったら高く売れるのだが残念ながらフランス製。もっとも売る気はないが。
☆マイコン
'70年代の後半から'80年代の話。マイコンとはマイクロ・コンピュータのこと。その時代にはパソコンてなものは無く、
言葉さえなかった。会社でSDK-85(この写真はネットから引用)というインテル社のボードコンピュータを
買ってもらったのがその後の運命を変えた。SDK-85はその頃の8bit最新CPU 8085を搭載していた。
まだ日本語の文献がほとんどなかったが、CPU内部がが各マシンサイクルでどういう風に働くかをまず理解した。
その次は「機械語」だ。アセンブリ言語でプログラムするがこれを頭の中で機械語に翻訳して
16進キーボードで、3A 00 80 32 00 90 CD 6E 03 ... という具合に入力していく。出力先は7セグメントのLEDだ。
このSDK-85ボードにまずメモリーを増設した。256バイトを最終的には65535バイトまで増設した。
これに紙テープリーダーをバス接続で繋いでそのドライバーを機械語で作って、アセンブラーとtinyBASICを構築した。
そしてAD変換チップとDA変換チップをDMA接続し、さらに8255を介してデジタルin/outのポートも搭載した。
これによってようやく会社に役立つ状態となったわけだ。かくしてコンピュータ制御による薬剤の合成実験がはじまった。
製造業いや全産業ででマイコンの出現は革命に間違いないと思った。きっと同じことをビル・ゲイツたちも
考えたのだろう。俺もあのとき会社を興していたら.......
それから2〜3年?経ってNECからあのPC-8001が発売された。そしてしばらくして日本でもパーソナルコンピュータという
ことばが広まった。「パソコン」のはじまりだ。でも我々はなぜか「パーコン」と呼んでいた。
その頃から既にアンチNEC・アンチ巨人・アンチTOYOTAをはっていたので、パソコンもFP-1100(CASIO)、
FM-11(FUJITSU)ときて、10年ぐらい前から名もないメーカーのDOS-V機、今はFMVノートのLOOXである。
日経バイト誌は創刊から20年以上、他にI/O、ASCII、Oh−○○、Interface、bit、、、よく買ったなあ。
その後、工業用パソコン+BASIC、UNIX+C言語、ミニコン(今は死語)+アセンブラ、WINDOWS+Visual
BASICなど
で機械やプラントの制御/管理システム作りに明け暮れた。私の「プロジェクト−何とか」だ。
☆ジャズバンド
東京転勤の際、社内になんとビッグ・バンドがあった。
自分の吹き方はJAZZのそれとは違うが、なんとかなるだろうと加入。社外のプロ出身者もいて本格的なバンドだ。
出番も多くて結構忙しかった。8分音符の連続フレーズではちょっと弾み気味で拍子の裏にアクセントをつけると
スイング感が出るのだが(基本中の基本だ)これがなかなか出来ない。サブ・トーンはできるようになったが。
東京じゅうの楽器屋を回って思い切ってセルマーのゴールドプレートを購入。もちろんアルトだ。
さあ、気合を入れてやるぞと思っていたら京都に戻ることになった。よくマイホームを買ったら転勤になるのと
同じジンクスだ。そのアルトを携えて今でも楽しく活動している。
☆オーディオ
本当はアナログプレーヤーとST管やGT管の真空管アンプが欲しかったのだが将来にとっておこうということで、
CDバージョンでそろえた。平成がはじまった頃の話である。CDプレーヤーはアキュフェーズのDP−70V、
これとプリなしで直結するパワーアンプがサンスイのB−2302
Vintage、スピーカーは今は無き
DIATONEのDS−V3000。大阪日本橋の老舗であれこれあれこれ聞き聞き比べした挙句に決めた。
全部で200Kg近くなる。このクラスの機器はキロ1万円と思ってほぼ差し支えない。
決め手は弦楽器の鳴りの太さだった。もちろん今でも現役でますます調子がいい。アキュフェーズからは今でも
年賀状が届く。
話題のCDを買ってきては、音楽そのものより録音の良し悪しをチェックしていた。
現在の木工+ギターの技術で、たとえデジタルの信号でも心暖まる、そして楽器のように良く鳴る「純木」の
スピーカーシステムをこしらえてみたい。家具より売れそうって?
☆脱サラしたきっかけ
インターネットの影響で趣味としてギター作りや木工を始めたらこれが楽しすぎた。
作ることも面白いが道具類の蒐集もなかなか楽しいものだ。
そういえば小さい頃、近くの木工所の廃材を集めては何か作っていた。
会社のほうも面白かったけど、二度とない人生の大事な日々・時間をより楽しいことをして過ごしたいと思った。
上司にも説明してなんとか了解していただいた。
生計のほうはまあなんとかなるだろういやなんとかしていこうと、妻も賛成してくれた。